イザナキがイザナミをもとめ黄泉の国に行く道中

光と闇の別れ 〜イザナキとイザナミの悲劇〜

国生みを終え、数多の神々を産んだイザナキとイザナミ。しかし、その幸せな時間は突如として終わりを告げます。妻イザナミが最後に産んだのは、万物を焼き尽くす火の神・カグツチでした。皮肉にも、最愛の我が子によってその身に大やけどを負ったイザナミは、もはやこの世に留まることができず、光の届かない黄泉の国(よみのくに)へと旅立ってしまったのです。

愛する妻を追って、永遠の闇の国へ

一人残された夫イザナキの悲しみは、計り知れないものでした。静まり返った世界で、彼はただただ嘆き悲しみます。しかし、その悲しみはやがて、一つの決意に変わりました。

「もう一度、愛するナミに会いたい。必ずこの手で連れ戻す!」

決意を固めたイザナキは、生者が決して足を踏み入れてはならない禁忌の地、黄泉の国へと向かいます。そこは、光も音も生命の息吹も存在しない、永遠の闇と沈黙が支配する世界でした。

暗闇の中、ようやく妻の気配を見つけ出したイザナキは、喜び勇んで声をかけます。「愛しい我が妻、イザナミよ。私と一緒に帰ろう。私たちの国造りはまだ終わっていないのだ」

すると闇の奥から、弱々しくも懐かしい声が返ってきました。「…ああ、愛しいあなた。よくぞここまで…。しかし、もう遅いのです。私はすでに、黄泉の国の食べ物を口にしてしまいました。この国の理(ことわり)により、もはや現世(うつしよ)へは帰れない身なのです」



破られた禁忌と、変わり果てた妻の姿

絶望するイザナキに、イザナミはかすかな望みを繋ぐ言葉を続けます。

「ですが、せっかくあなたが来てくださったのです。私も帰りたい。黄泉の国の神々に、どうにか帰れないか相談してみましょう。…ですから、その間、決して私の姿を見てはなりません。約束してください」

そう言い残し、イザナミは御殿の奥へと消えていきました。しかし、待てど暮らせど彼女は戻ってきません。静寂と暗闇が、イザナキの心を不安でかき乱します。愛しさと疑念に耐えきれなくなった彼は、ついに禁忌を破る決意をしました。

髪に挿していた櫛の歯を一本折り、火を灯して中を照らしたのです。

その瞬間、イザナキの目に飛び込んできたのは、もはや彼の知る美しい妻の姿ではありませんでした。その体は腐り果ててウジがわき、変わり果てた体には八柱の恐ろしい雷神(いかづちがみ)がまとわりついていたのです。

「ひぃっ…!」

あまりの恐怖に声も出ず、イザナキは持っていた灯りを投げ捨て、一目散に逃げ出しました。

黄泉の国の壮絶な鬼ごっこ

「よくも私に恥をかかせましたね!」

約束を破られ、醜い姿を見られたイザナミの怒りと羞恥は頂点に達しました。彼女は黄泉の醜女(よもつしこめ)と呼ばれる鬼女たちに、逃げるイザナキを追わせます。

イザナキは必死に逃げながら、腰に差した十拳剣(とつかのつるぎ)を抜き放って後ろ手に振り、追手を牽制します。そして、髪飾りを投げればブドウが、櫛を投げればタケノコが生え、醜女たちがそれに夢中になっている隙に、さらに先へと逃げました。

しかし、最後にはイザナミ自身が雷神たちと共に、猛烈な勢いで迫ってきます。もはやこれまでかと思われたその時、イザナキの目に飛び込んできたのは、坂の麓に生えていた桃の木でした。

彼はその実を三つもぎ取ると、力の限り追手に向かって投げつけます。古来より魔除けの力を持つとされる桃の実は、見事に黄泉の軍勢を退散させたのです。

この世とあの世の境界、悲しき「ことど」

ついにイザナキは、この世とあの世の境界である黄泉比良坂(よもつひらさか)にたどり着きます。そして、千人がかりでようやく動かせるほどの巨大な岩を引きずってきて、黄泉の国への道を完全に塞いでしまいました。

岩の向こうから、怒り狂ったイザナミの呪いの声が響き渡ります。

イザナミ:「愛しい我が夫よ、よくもこんなひどい仕打ちを!こうなれば私は、あなたの国の人間を一日に千人ずつ殺してやる!

イザナキ:「愛しい我が妻よ、お前がそう言うのなら、私は一日に千五百人ずつ産屋を建てよう!

こうして、人の「死」と「生」が定められ、たとえ人が死んでも、それ以上に生まれることで国が繁栄していくという、人間の営みが始まったと言われています。

禊(みそぎ)と三貴子の誕生

黄泉の国の穢れ(けがれ)をその身に受けたイザナキは、疲れ果てた体で筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(つくしのひむかのたちばなのおどのあはぎはら)へとたどり着きます。そして、清らかな水辺で、その身を清めるための禊(みそぎ)を行いました。

彼が水の中で穢れを洗い流すと、その体から次々と神々が生まれていきました。そして、クライマックスが訪れます。

  • 左目を洗った時、光り輝く太陽の女神・天照大御神(アマテラスオオミカミ)が誕生。
  • 右目を洗った時、穏やかな月の神・月読命(ツクヨミノミコト)が誕生。
  • そして最後に鼻を洗った時、荒々しい海原の神・須佐之男命(スサノオノミコト)が誕生したのです。

イザナキは、最後に生まれたこの三柱の神々を「三貴子(みはしらのうずみこ)」と呼び、自らが治めるべき世界をそれぞれに分け与えました。悲劇の果てに、日本の神々の世界を統べる最も尊い神々が、こうして誕生したのです。